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2011/07/13

花を見て「何かを感じる」子どもは少数派だ。少なくとも20年前からそうだ。

はてな匿名ダイアリーで多くのブックマークを集めていた文章があった。

花をきれいだと思わない子どもたち

例えば「花が咲き乱れている」という文を読んで、どんなことを思うか聞いたとする。

「花がたくさんあるということは自然が豊かな場所かな」とか

「どんな花だろうか」「季節は春なのかな」とか

「たくさん花があったらきれいだろうな」とか

考えようと思えば考えることはたくさんある。

でも、子どもたちは「わからない」「何も感じない」って言うんだよね。(経験談)

「花が咲いていて、だから?」って感じ。

「花が咲いているということはどんな場所だと思いますか?」とか

「咲き乱れている、ということはどのくらい花が咲いていると思いますか?」とか

具体的に聞いてやっとぽつりぽつり話す感じ。

おそらく、そのモノに対する意見とか見解が一切ないんだろうなって思った。

自分で意見を述べるということは面倒くさくて、

誰かが言う答えをただ右から左へ書き写しているだけ。

自分の理解の範囲外は模範解答がないと怖くて発言できない。

それだけならまだいい。

もしかしたら、「花を見てきれいだ」と思う気持ちすらないのかもしれない。

将来学校で「花を見たらきれいだと感じるのが一般的です」などと教えなきゃいけないのかもしれない。

その状況では「もしかして花をきれいだと思うのは自分だけ?」なんて悩みもあるかもしれない。

そんなことを考えたらなんだか怖くなった。


まず、俺はこの意見に賛成できない。俺はアンジェリーナ・ジョリーが世界で最高の女だとは思っていないし、AKB48の中ですら前田敦子さんが一番素晴らしいとも思っていないからだ。

しかし、この文章はまるで賛成できない人からの意見を大きな口を開けて待っているかのようだ。きっと、この文章そのものがなにかのメタファーなのだろう。それがいわゆる大手メディアに対しての皮肉なのか、それとも「大人」のコミュニケーションにたいしての皮肉なのか、それともネットでの何かなのか、もしくは本当にそのままなのか。

しかし、今回はこの文章をそのまま読み取って、まんまと吊られてみたいと思う。

・・・

◆あなたの意見は誰を参考にして考えたのですか?

ここで語られる「子ども」が何歳くらいかにもよるけれど、たぶん小学生くらいだと想像する。
その年代の子どもみんなが「自然を愛すことは素晴らしいことだと思います」だとか「やりたいことや学びたいことが、まだたくさんあります。長生きして、生きる喜びを満喫するつもりです。生きているってすばらしいことだと思います」などと言っていたら、きっとにくたらしくて薄気味の悪い子どもに感じるだろう。
大人が言っていることをそのまま自分の意見のように語る「よりよく教育された天才子役のインタビュー」を見ているように感じるだろう。福島県の海沿いに住んでいたわけでもない限りはね。
子どもは生まれながらにみんなターシャ・テューダーではない。ターシャ・テューダー本人でさえ、長年生きていた中のどこかの瞬間から、何年も何年もかけて熟成された「ターシャ・テューダー」になっていったのではないのか。

ターシャ・テューダー - Wikipedia


◆人生を変えるほどではないけれど、何かに気付く瞬間。

生まれた頃からずっとお花畑に暮らしている人は、花をきれいだなんて思っていないだろう。花なんて、ただそこに存在しているものだと思っているだろう。大人になっても、たぶん花よりもマリファナの方に興味があるだろう。
平和な国に暮らしている人は、この国が平和だと実感する機会は少ないだろう。平和はただ、そこに当たり前のように存在しているものだと思っているだろう。たぶん戦争の方に興味があるだろう。
もちろん俺もそうだ。地震や津波が起こっても、たいしたことにはならないし、原発はメルトダウンなんてしない。電力不足で停電するわけがない。このパソコンの何割かは原子力発電で動いています。

・・・

◆スイカに塩をかけるように。

俺は子どもの頃、ピーマンが食べられなかった。栄養がたっぷりあるから食べた方がいいといくら聞かされても、苦くて食べられなかった、どうしてもダメだった。
でも今じゃピーマンを美味しいと思っている。最高に美味だとはとは思わないけれど、ほどよい苦味が美味しいと感じる。子どもの頃から比べて、味覚が変化したのだ。
ピーマンの入っていないチンジャオロースは物足りない。ゴーヤの入っていないゴーヤチャンプルはただのチャンプルじゃないか。そりゃそうだ。

・・・

◆花がきれいなわけではない。

俺が小学生だったころ「花」をきれいだなんて思ったことはなかった。バラも、ひまわりも、さくらでさえも、そこから何も感じとれなかった。「花」に思い入れなんてなかったからだ。
バラにまつわる物語を知らず、夏休みにひまわりが咲いていることを当たり前だと思い、環境と人生が変わる季節にいつもさくらが咲いていることも、そのさくらはすぐに散ってしまうということも、よくわかっていなかった。
花にまつわるエピソードが自分の人生に関係があると知るまで、花はただの花であり、それ以上でもそれ以下の存在でもなかった。ただ咲いて、ただ枯れる。それだけの存在だったのだ。
無常?なんだそれは。俺は子供なんだ。そんなものわかるわけがないだろう。そんなの理解できるわけがないじゃないか。放っておいてくれ。こっちはマリオカートで急がしいんだ。

・・・

◆花のない人生は、人生ではない。

俺が小学校に通っていた頃のある日の下校時、一緒に帰っていた同級生が「つつじの花って甘いって知ってる?」と言った。俺は意味がわからなかった。
あっけに取られた顔をしている俺をよそ目に、その同級生は学校に植えてあるつつじの花をひとつむしりとって、その花の尻の方をチュッチュと吸いながら「ほら、スゲー甘い」と言った。こいつ何やってんだ?と思いながら俺もマネしてやってみた。つつじの花は本当に甘かった。
水の1滴にも満たないくらいだったが、つつじの花には甘い蜜が溜まっていた。俺たちはその甘い蜜をハチと争いながら奪い合った。

それ以来、俺はつつじの花が大好きになった。それ以来、俺は花を見ると幸せな気分になる。花の無い人生は、人生ではないのだ。
それから数日で学校に植えてあるつつじの花があれよあれよとなくなっていって、そのことが学校で大問題になったのは、また別のお話である。

・・・

なんだかんだで俺がいいたかったことはひとつ。
花を「きれいだ」と思うようになるには人間としての成長も必要だけれど、何よりも花を好きになる「きっかけ」が必要だ、ということ。


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